叩く鍵盤、怒る指 [リポート]
20代の後半に新婚旅行で訪れたパリ。
名所旧跡をめぐりつつ、なぜか惹かれるものがあって、パリ20区の
ペールラシェーズ墓地へと足を運んだ。
社会学の祖オーギュスト=コント、エジプトの神聖文字を解読したシャンポリオン、
シャンソン歌手のエディット=ピアフ・・・。著名人の墓碑銘をたどりながら、静かに歩く。
その中にフレデリック=ショパンの名を見つけた。
「ピアノの詩人」ショパン。
父はフランス人、母はポーランド人。
生まれ故郷、祖国ポーランドは、18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアという周囲の強国に
結局3度にわたって分割され、地図上から消滅していた。
1789年、フランス革命勃発。
革命によって、自由・平等の旗がフランスから全ヨーロッパの人々の手へともたらされたが、
やがてナポレオン=ボナパルトが帝位につき、ヨーロッパはその支配下に入った。
ポーランドも一部ロシアから切り離され、ワルシャワ大公国としてフランス皇帝の従属国となる。
1814年、ナポレオン没落後に開かれたウィーン会議。
ポーランド王位はロシア皇帝のもとなり、再びロシアの支配に屈することとなる。
ショパンはその直前、1810年にワルシャワで誕生している。
「革命は人類の敵」と言い切るオーストリア宰相メッテルニヒを中心とした、列強の保守反動の
ウィーン体制が、ヨーロッパ各地の自由・平等・独立を求める民衆の運動を弾圧していた。
しかし、1830年、フランスで七月革命が勃発。
縦2.6m、横3.25mのドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のドラマティックな画面のように
人々が立ち上がった。この動きは、オランダ統治下の南ネーデルラントをベルギーとして独立させ、
ドイツやイタリアでも民衆が蜂起。そしてポーランドでも火の手が上がった。
1830年のワルシャワ11月蜂起。市民と軍隊はロシア軍をいったん退け、臨時政府を樹立させたが、
翌年9月にはロシア軍の反攻によって武装蜂起は完全に鎮圧され、ワルシャワは占領された。
演奏旅行のため、故国をあとにし、ウィーン、そしてパリへと向かう旅の途上で、
ショパンはワルシャワ蜂起とその失敗の知らせを耳にする。
彼は政治的な主義主張は明確に持たなかったとされるが、ポーランドへの愛着と祖国の実情に
対する憂いだけは、誰よりも強くあったようだ。
もう引き返すことのできぬ道。
ロシアの軍靴に踏みにじられた祖国。焼け落ちた市街地に横たわる死体。
親しい者たちの気になる安否。自分の無力さ。ともに銃をとることができなかった後ろめたさ。
悲しみ。怒り。焦り。あきらめ。苦しみ。
さまざまな感情が、腕に、手首に、指先に、込められ、鍵盤を叩く。
練習曲第12番 ハ短調 『革命』 (「革命のエチュード」)
わずか3分足らずの曲だが、激しいパッセージの繰り返し。
20歳の若きピアニストが、祖国の革命失敗の絶望を動機として作曲したというのは、もはや伝説的。
ただ二度と祖国には戻ることのない、彼の39年の短くも激しい生涯を暗示させるような音にも、
またその後のポーランドの苦闘の歴史を象徴するような音にも聴こえる。
1849年、数多くの憂愁の調べを遺し、ショパンは永遠の眠りにつく。遺体はパリの
ペールラシェーズ墓地に埋葬されたが、彼の遺志により心臓だけがポーランドへ帰った。
ルーブル美術館では、やはりドラクロワの描いたショパンの肖像画も目にすることができる。
彼の視線の先にはポーランドの空があるのだろうか、それとも・・・。
名所旧跡をめぐりつつ、なぜか惹かれるものがあって、パリ20区の
ペールラシェーズ墓地へと足を運んだ。
社会学の祖オーギュスト=コント、エジプトの神聖文字を解読したシャンポリオン、
シャンソン歌手のエディット=ピアフ・・・。著名人の墓碑銘をたどりながら、静かに歩く。
その中にフレデリック=ショパンの名を見つけた。
「ピアノの詩人」ショパン。
父はフランス人、母はポーランド人。
生まれ故郷、祖国ポーランドは、18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアという周囲の強国に
結局3度にわたって分割され、地図上から消滅していた。
1789年、フランス革命勃発。
革命によって、自由・平等の旗がフランスから全ヨーロッパの人々の手へともたらされたが、
やがてナポレオン=ボナパルトが帝位につき、ヨーロッパはその支配下に入った。
ポーランドも一部ロシアから切り離され、ワルシャワ大公国としてフランス皇帝の従属国となる。
1814年、ナポレオン没落後に開かれたウィーン会議。
ポーランド王位はロシア皇帝のもとなり、再びロシアの支配に屈することとなる。
ショパンはその直前、1810年にワルシャワで誕生している。
「革命は人類の敵」と言い切るオーストリア宰相メッテルニヒを中心とした、列強の保守反動の
ウィーン体制が、ヨーロッパ各地の自由・平等・独立を求める民衆の運動を弾圧していた。
しかし、1830年、フランスで七月革命が勃発。
縦2.6m、横3.25mのドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のドラマティックな画面のように
人々が立ち上がった。この動きは、オランダ統治下の南ネーデルラントをベルギーとして独立させ、
ドイツやイタリアでも民衆が蜂起。そしてポーランドでも火の手が上がった。
1830年のワルシャワ11月蜂起。市民と軍隊はロシア軍をいったん退け、臨時政府を樹立させたが、
翌年9月にはロシア軍の反攻によって武装蜂起は完全に鎮圧され、ワルシャワは占領された。
演奏旅行のため、故国をあとにし、ウィーン、そしてパリへと向かう旅の途上で、
ショパンはワルシャワ蜂起とその失敗の知らせを耳にする。
彼は政治的な主義主張は明確に持たなかったとされるが、ポーランドへの愛着と祖国の実情に
対する憂いだけは、誰よりも強くあったようだ。
もう引き返すことのできぬ道。
ロシアの軍靴に踏みにじられた祖国。焼け落ちた市街地に横たわる死体。
親しい者たちの気になる安否。自分の無力さ。ともに銃をとることができなかった後ろめたさ。
悲しみ。怒り。焦り。あきらめ。苦しみ。
さまざまな感情が、腕に、手首に、指先に、込められ、鍵盤を叩く。
練習曲第12番 ハ短調 『革命』 (「革命のエチュード」)
わずか3分足らずの曲だが、激しいパッセージの繰り返し。
20歳の若きピアニストが、祖国の革命失敗の絶望を動機として作曲したというのは、もはや伝説的。
ただ二度と祖国には戻ることのない、彼の39年の短くも激しい生涯を暗示させるような音にも、
またその後のポーランドの苦闘の歴史を象徴するような音にも聴こえる。
1849年、数多くの憂愁の調べを遺し、ショパンは永遠の眠りにつく。遺体はパリの
ペールラシェーズ墓地に埋葬されたが、彼の遺志により心臓だけがポーランドへ帰った。
ルーブル美術館では、やはりドラクロワの描いたショパンの肖像画も目にすることができる。
彼の視線の先にはポーランドの空があるのだろうか、それとも・・・。
- アーティスト: ショパン,バレンボイム(ダニエル),ガヴリーロフ(アンドレイ),プレトニョフ(ミハイル),リヒテル(スヴャトスラフ),ブーニン(スタニスラフ),ルイサダ(ジャン=マルク),ティボーデ(ジャン=イヴ)
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2007/09/05
- メディア: CD