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荒野に花を咲かせるために [モノローグ]

戦後65年という活字が目に飛び込んでくる昨今。
あの1945年、すなわち第2次世界大戦が終結して65年の月日が流れた。
それは沖縄戦からも、ヒロシマ・ナガサキからも65年が経ったということ。
そして今年は韓国併合から100年というめぐりあわせでもある。

戦争を考えるときに必ず口をついて出るのは、加害(者)と被害(者)という言葉。
どこまでを加害者といい、どこまでが被害者なのか。
戦場に行かず、敵兵を撃たなければ、加害者でないのか。
空襲で家を焼かれなければ、被害者でないのか。
戦後に生まれ、戦争を体験していない人間は、まったく関係がないのか否か。
自己と他者の線引きだけに躍起になっている人々もいるが、少し不毛ではないだろうか。
お互いが相手の身になって理解する、相手の傷に寄り添ってみる。話を聞いて共感する。
過去をよく知り、現在を考え、よりよい未来のために行動することが、何より大切では・・・。

20世紀中に解決できず、21世紀に持ち越された諸課題の中で、
最も困難だと言われる、パレスティナ問題。
イスラエル・ユダヤ人とアラブ・パレスティナ人の対立は、
両者ともが大きな歴史の被害者であり、戦争やテロを通じては両者が被害者であると同時に
加害者にもなっている。
私たちが住む日本という国は、65年もの間、戦争をしなかったが、
かの地の人々は、戦争(やその危険に身をおいている状態)がむしろ日常である、
というのが現実である。私たちはそれをどれだけ想像できるか。

一冊の本がある。
イスラエルの現代作家で平和活動に取り組む、アモス=オズの
『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』には、パレスティナ問題の解決法が拍子抜け
するほどシンプルに示されている。
一番必要なのは他者を理解する想像力なのだと、オズは言う。
この世界のあらゆる紛争や対立、そして戦争の背景にあるのは、「わたしたちこそ正しい」
と狂信し、他者(とその考え)をシャットアウトする思考法であると。

自分(たち)のことを笑えないようになったら、と思うと、
この猛暑の日々に背筋が寒くなった・・・。

いつか、平和を求める多くの人々の地道な活動が実り、音楽を共通の言語として、
ユダヤの若者とパレスティナの若者の奏でるハーモニーが世界中で響きあい、
世界中の聴衆が歓呼の声をあげるようなコンサートが実現すればいいのに・・・。

荒野に花を咲かせるために、一歩一歩のあゆみを大事に積み重ねている人が、
一語一語を大切に紡ぎ出している人が、世界にはいる。



わたしたちが正しい場所に花は咲かない

わたしたちが正しい場所に花は咲かない

  • 作者: アモス オズ
  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 2010/03
  • メディア: 単行本



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誰のための、何のための。 [モノローグ]

そこに立たなければ、実感できないことがある。
その場所に身を置かなければ、真にその意味を理解できない事実がある。

沖縄、広島、長崎をかつて訪れた。
すべてそうだった。

もし、人生の時間が許せば、南京とアウシュビッツへも・・・。

アウシュビッツ・ビルケナウ収容所。
ナチス=ドイツの強制絶滅収容所。
ここだけでおよそ160万人もの人々が命を奪われた。
負の世界遺産。

灰色の死の世界にも「音楽」はあった。
『アウシュビッツの音楽隊』は、ドイツ人とユダヤ人と「音楽」の、
奇妙な三角関係の延長線上にある、「音楽」と人間の不可思議な物語が
そこを生き延びた人間の記憶によって描かれている一冊。

「音楽」は、生きる歓び、慰め、癒し。
しかし「音楽」は、人間の心と身体を縛りつけ、同じ方向に人間を
追い立てる装置。

「音楽」の価値のために人は奪われ、「音楽」の歓びのために人は犠牲になる。

人間を焼き殺したあとの黒い煙を眺めながら、強制労働に駆り出される収容者たちを、
見送り、また出迎えるために、毎日演奏する音楽隊。
収容者から選ばれた死の国の音楽隊が、アウシュビッツに存在した。

「音楽」は、まるで絶望への行進曲であり、まさに死者のための鎮魂歌。
しかし「音楽」は、やはり希望の序曲であり、そして生きるための讃歌。

確かにアウシュビッツでは、その両方が混在していた。


アウシュヴィッツの音楽隊

アウシュヴィッツの音楽隊

  • 作者: シモン ラックス
  • 出版社/メーカー: 音楽之友社
  • 発売日: 2009/04/21
  • メディア: 単行本



英雄か、テロリストか・・・ [リポート]

南北戦争(1861~65年)はアメリカでは、「Civil War」(市民戦争)と呼ばれます。
エイブラハム=リンカン大統領という傑出した指導者のもとで、アメリカの歴史上最大の約62万人の
犠牲者を出しながらも、国家分裂の危機を乗り越えた国内戦争が、南北戦争でした。
戦争中のリンカンの奴隷解放宣言や、「人民の、人民による、人民のための政治・・・」で有名な
ゲティスバーグ演説、さらに戦争終結直後のリンカンの暗殺など、世界史の授業では話題に事欠かない
項目です。

たいてい南北戦争の授業のときは、教室には、南軍旗やストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』や
リンカンの演説原稿のコピーや暗殺で使われたデリンジャー銃のレプリカなどを持ち込みますが、
やはり音にもこだわります。
かつてALTのアメリカ人講師に授業に参加してもらい、南北戦争についてQ&Aをやりとりしたり、
リンカン大統領になったつもりでゲティスバーグ演説を英語で朗読してもらったりもしました。

もちろん音楽もあります。

黒人奴隷の過酷な労働や差別を取り扱う場合は、歌詞をじっくり読みながら黒人霊歌を聴かせた
こともありましたが、奴隷制の是非が南北対立を深め、やがて戦争になったという側面から語れる材料の
ひとつとして、『リパブリック賛歌 (Battle Hymn of the Republic)』があります。

この歌はもともと、1856年頃にウィリアム=ステッフという人物によって作曲された賛美歌で、
1862年にジュリア=ウォード=ハウという女性詩人が歌詞をつけたと言われています。
戦争中に北軍の愛唱歌となり、リンカン大統領も聴いていたようです。

Mine eyes have seen the glory of the coming of the Lord,
He is trampling out the vintage where the grapes of wrath are stored,
He hath loosed the fateful lightning of His terrible swift sword,
His truth is marching on.
Glory! Glory! Hallelujah!
Glory! Glory! Hallelujah!
Glory! Glory! Hallelujah!
His truth is marching on.

私は到来する主の、栄光を見た
神の怒りの葡萄が、貯めてあるところで
主は、収穫物を踏み潰す
主は、恐怖の剣を振りかざし、運命の稲妻を落とす
主の信念は進撃してゆく
主に栄光あれ!(繰り返し)
主の信念は進撃してゆく

ところが、同じメロディで異なる歌詞が存在します。
それが『ジョン=ブラウンの屍 (John Brown’s Body)』です。

John Brown’s Body lies a-moldering in the grave,
(3回繰り返し)
But his soul goes marching on.
Glory! Glory! Hallelujah!(3回繰り返し) 
But his soul goes marching on.

ジョン=ブラウンの屍は墓の中で朽ちかかっている(3回)
しかし、彼の魂は勝ち誇って進む
グローリー グローリー ハレルヤ!(繰り返し)
彼の魂は勝ち誇って進む

これは奴隷解放論者のジョン=ブラウン(1800~59年)を称えて、歌われ、広まったものです。
奴隷解放運動に身を捧げ、黒人奴隷の蜂起によって奴隷制度を打ち破ろうとしたブラウンは、
南北戦争を始めさせた男、奴隷解放の英雄として評価される一方、
奴隷制擁護派の白人を惨殺(1856年のポタワトミーの虐殺)し、1859年10月にはヴァージニアの
ハーパーズ=フェリーにある連邦政府の武器弾薬庫を襲撃して奴隷の蜂起を呼びかけ
逮捕・処刑されるという、いわばテロリストの走りとして否定される存在でもあります。
南部の住民は彼を悪魔のように呪いましたが、リンカンでさえ彼を「妄想にとりつかれた狂信者」と呼び
ました。果たしてジョン=ブラウンは英雄的殉教者か、狂人か、テロリストか。

彼は1859年の12月に反逆罪で絞首刑になりますが、歌詞のJohn Brown’s Bodyは、
刑に処されて吊された彼の姿を表しているのでしょう。またその処刑には多くの民兵が立ち会った
ようですが、その中に後にリンカンを暗殺するジョン=ブースもいたという話もあります。

この歌はアメリカの民謡・愛国歌として今なお親しまれていますが、海を渡って日本にも伝えられました。
明治時代には賛美歌として歌われ、また新たな歌詞がつけられて『おたまじゃくしは蛙の子』や
『ともだち讃歌』となって今も歌い継がれています。
そして、某有名家電量販店のCMソングのメロディとしても・・・。 


The Civil War - Traditional American Songs And Instrumental Music Featured In The Film By Ken Burns: Original Soundtrack Recording

The Civil War - Traditional American Songs And Instrumental Music Featured In The Film By Ken Burns: Original Soundtrack Recording

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Nonesuch
  • 発売日: 1990/12/29
  • メディア: CD



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歴史は繰り返す [リポート]

ベートーヴェンが捧げるはずであった献辞は、やはり失われる運命であったのか。

1804年、国民投票により34歳で皇帝となったナポレオン。
翌1805年のアウステルリッツの三帝会戦、さらに1806年のイエナ・アウエルシュテットの戦いで
オーストリア・ロシア・プロイセンを次々と撃破し、ほぼ西ヨーロッパ全域を支配下におく。
1806年にはイギリスの経済封鎖を狙って、イギリスと大陸諸国の通商を禁止するいわゆる
大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発令。その勢威は頂点に達したかに見えたが、しかし・・・。

フランス革命の流血の中から手にした「自由」「平等」を守るため、そして諸国民を圧政から解放する
ための革命戦争は、いつしか皇帝ナポレオンの独裁権力による侵略戦争へと姿を変えていった。

1812年6月、大陸封鎖令に従わないロシアに対し、ナポレオンはおよそ60万人の大軍を率いて
ロシア遠征を敢行。ところが、ロシア側は巧妙に決戦を避けながら退却を繰り返し、ナポレオン軍を
領内に深く誘い込む。遠征軍はフランスと支配下諸国の混成部隊で統率も不完全であり、脱走兵も
相次いだ。9月のボロディノの戦いではロシア軍に決定的な打撃を与え、ついにモスクワを占領したが、
そこには火を放たれて廃墟となった街が残されていただけであった。
ロシアの焦土作戦で補給のできないナポレオン軍は、冬将軍の到来で飢えと寒さに悩まされ、
10月には退却を余儀なくされた。ロシア軍はこれを見て反攻を開始。農民ゲリラもナポレオン軍に
襲いかかった。12月にニーメン川を渡った時点でナポレオン軍は何と5000人に減っていたという。
この大敗北をきっかけとして、ナポレオンは没落の階段を転げ落ちる。
1813年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で敗れたナポレオンは皇帝を退位し、
翌年エルバ島に流され、その野望は消え去った。

ロシアではナポレオンの遠征を、「1812年の祖国戦争」と呼ぶ。
この戦争は文豪トルストイの小説『戦争と平和』に描かれるとともに、国民的作曲家チャイコフスキーに
よって序曲『1812年』として音楽でも表現された。
華麗なオーケストレーション、戦闘を彷彿させる大砲の轟音、平和への祈りを象徴する聖歌や鐘の音、
民衆の声なき声を表す民謡の調べ。そして、フランス国歌『ラ=マルセイエーズ』とロシア国歌の旋律を
交互に強弱をつけて繰り返し、両軍の攻防を巧みに表現する・・・。
他国の侵略から国土を防衛した戦争の記憶。
チャイコフスキーは、五線譜の上で音符によってこれを再現した。

ナポレオンのロシア遠征からおよそ130年後。
1941年6月、独ソ不可侵条約を破って突如ドイツ軍がソ連領内に侵攻し、独ソ戦が始まる。
当初ドイツ軍の攻勢が圧倒的であったが、同年12月、冬将軍のためにドイツ軍の進撃が止まった。
 (※第2次世界大戦の開戦以来、ヨーロッパを席巻したドイツ軍の進撃が初めてストップした時、
   地球の裏側ではその同盟国が太平洋で戦争を開始した・・・)
1942年8月からその翌年の2月にかけて戦われた凄惨な市街戦、スターリングラードの攻防戦で
大敗北を喫したドイツ軍は、第2次世界大戦において以後劣勢に立たされ、
ヒトラーの野望はついえることになる。

やはり、やはり歴史は繰り返される・・・。


チャイコフスキー:1812年

チャイコフスキー:1812年

  • アーティスト: ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団,ベートーヴェン,チャイコフスキー,マゼール(ロリン)
  • 出版社/メーカー: ソニーレコード
  • 発売日: 1996/10/21
  • メディア: CD



叩く鍵盤、怒る指 [リポート]

20代の後半に新婚旅行で訪れたパリ。
名所旧跡をめぐりつつ、なぜか惹かれるものがあって、パリ20区の
ペールラシェーズ墓地へと足を運んだ。
社会学の祖オーギュスト=コント、エジプトの神聖文字を解読したシャンポリオン、
シャンソン歌手のエディット=ピアフ・・・。著名人の墓碑銘をたどりながら、静かに歩く。
その中にフレデリック=ショパンの名を見つけた。

「ピアノの詩人」ショパン。
父はフランス人、母はポーランド人。
生まれ故郷、祖国ポーランドは、18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリアという周囲の強国に
結局3度にわたって分割され、地図上から消滅していた。

1789年、フランス革命勃発。
革命によって、自由・平等の旗がフランスから全ヨーロッパの人々の手へともたらされたが、
やがてナポレオン=ボナパルトが帝位につき、ヨーロッパはその支配下に入った。
ポーランドも一部ロシアから切り離され、ワルシャワ大公国としてフランス皇帝の従属国となる。
1814年、ナポレオン没落後に開かれたウィーン会議。
ポーランド王位はロシア皇帝のもとなり、再びロシアの支配に屈することとなる。
ショパンはその直前、1810年にワルシャワで誕生している。

「革命は人類の敵」と言い切るオーストリア宰相メッテルニヒを中心とした、列強の保守反動の
ウィーン体制が、ヨーロッパ各地の自由・平等・独立を求める民衆の運動を弾圧していた。
しかし、1830年、フランスで七月革命が勃発。
縦2.6m、横3.25mのドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のドラマティックな画面のように
人々が立ち上がった。この動きは、オランダ統治下の南ネーデルラントをベルギーとして独立させ、
ドイツやイタリアでも民衆が蜂起。そしてポーランドでも火の手が上がった。
1830年のワルシャワ11月蜂起。市民と軍隊はロシア軍をいったん退け、臨時政府を樹立させたが、
翌年9月にはロシア軍の反攻によって武装蜂起は完全に鎮圧され、ワルシャワは占領された。

演奏旅行のため、故国をあとにし、ウィーン、そしてパリへと向かう旅の途上で、
ショパンはワルシャワ蜂起とその失敗の知らせを耳にする。
彼は政治的な主義主張は明確に持たなかったとされるが、ポーランドへの愛着と祖国の実情に
対する憂いだけは、誰よりも強くあったようだ。

もう引き返すことのできぬ道。
ロシアの軍靴に踏みにじられた祖国。焼け落ちた市街地に横たわる死体。
親しい者たちの気になる安否。自分の無力さ。ともに銃をとることができなかった後ろめたさ。
悲しみ。怒り。焦り。あきらめ。苦しみ。
さまざまな感情が、腕に、手首に、指先に、込められ、鍵盤を叩く。

練習曲第12番 ハ短調 『革命』 (「革命のエチュード」)

わずか3分足らずの曲だが、激しいパッセージの繰り返し。
20歳の若きピアニストが、祖国の革命失敗の絶望を動機として作曲したというのは、もはや伝説的。
ただ二度と祖国には戻ることのない、彼の39年の短くも激しい生涯を暗示させるような音にも、
またその後のポーランドの苦闘の歴史を象徴するような音にも聴こえる。

1849年、数多くの憂愁の調べを遺し、ショパンは永遠の眠りにつく。遺体はパリの
ペールラシェーズ墓地に埋葬されたが、彼の遺志により心臓だけがポーランドへ帰った。

ルーブル美術館では、やはりドラクロワの描いたショパンの肖像画も目にすることができる。
彼の視線の先にはポーランドの空があるのだろうか、それとも・・・。


別れの曲~小犬のワルツ/ショパン:名曲集

別れの曲~小犬のワルツ/ショパン:名曲集

  • アーティスト: ショパン,バレンボイム(ダニエル),ガヴリーロフ(アンドレイ),プレトニョフ(ミハイル),リヒテル(スヴャトスラフ),ブーニン(スタニスラフ),ルイサダ(ジャン=マルク),ティボーデ(ジャン=イヴ)
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2007/09/05
  • メディア: CD



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世界は本当にひとつになれるのか・・・? [モノローグ]

昨年末、初めてベートーヴェンの交響曲第9番<合唱つき>をコンサートホールで
聴く機会がありました。
やはりさすがに”第9”でした。ベートーヴェンの渾身のシンフォニーだけあって、
第1楽章から指揮者とオケのつくりだす音世界に引き込まれました。
そして、第4楽章の「歓喜に寄せて」の合唱が始まると、文字どおり鳥肌が・・・。
ステージ上の演奏者のみならず、ホールの聴衆すべてが、ベートーヴェンの意志の赴く
空間に昇ってゆくような、そんな瞬間さえ覚えました。

バッハは教会のために、モーツァルトは貴族のために、そしてベートーヴェンは、
市民階級のために音楽をつくったと言われます。
折しも18世紀末、フランス革命が勃発、初めて身分制社会を否定し、自由と平等の旗を
掲げた激動の時代でした。
革命思想に共鳴した平民出身のベートーヴェンが、革命戦争に勝利したナポレオンのために
交響曲を作曲したものの、彼が皇帝に即位して独裁権力者になった報を聞き、その献辞を
破り捨てたのは有名な逸話です(・・・交響曲第3番<英雄>)。

ナポレオン没落後の1815年には、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すという
保守反動のウィーン体制がスタート。特にその牙城であるハプスブルク家支配の
オーストリアでは、皇帝の政治や旧来の社会を批判する分子は徹底して取り締まりの対象に
なりました。貴族に屈することなく、芸術家として独立した歩みを目指したベートーヴェンも、
当局の監視下におかれたようです。

時代が変わり、自らの重厚長大な芸術作品が民衆に受け入れられなくなるとともに、
音楽家にとって致命的な聴覚を失うことに苦悩するベートーヴェン。それでもなお、その脳裏には
革命の時代に人々によって歌われたシラーの詩「歓喜に寄せて」がありました。

<前略>
・・・・・・・・
そなたの力は再び結び合わせる
世の習いが厳しく分け隔てたものを
すべての人間が兄弟となる
そなたの柔らかな翼の憩うところ
・・・・・・・・
<後略>

交響曲にあえて声楽を付けるという彼の意図は何だったのか?
シラーの詩をかなり短く、しかも字句を変更してまで、使ったのはなぜか?
音符では伝えきれなかった、彼の心の底にあったものは?

人々を熱狂させ、高揚させ、一体感を紡ぐこの曲は、初演以来たびたび
祝祭や記念の式典で演奏されてきました。ドイツ民族を団結させるために
アドルフ=ヒトラーのナチスによって利用されたこともありました。
ベルリンの壁が崩壊した際には、レナード=バーンスタインによって、
「歓びよ・・・」を「自由よ・・・」と歌詞を変えてコンサートで演奏されました。
日本ではいつの頃からか、年末に”第9”を聴くことが年中行事のようになりました。
そのたびに、そこに集う人々は、この曲を聴いて気分を高揚させ、あたかも世界が
1つになれるかのような錯覚に浸ります。

人と人、人の心と心が、時々濃密に確かめ合わなければ意識できないほど、
私たちは徹底的に分け隔てられているのかと、逆に思わざるを得ません。



「歓喜に寄せて」の物語―シラーとベートーヴェンの『第九』

「歓喜に寄せて」の物語―シラーとベートーヴェンの『第九』

  • 作者: 矢羽々 崇
  • 出版社/メーカー: 現代書館
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本


ベートーヴェン:交響曲第9番

ベートーヴェン:交響曲第9番

  • アーティスト: フルトヴェングラー(ウィルヘルム),ベートーヴェン,バイロイト祝祭管弦楽団
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2004/12/01
  • メディア: CD



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夢は勇気から・・・ [リポート]

歴史では、弱き立場、虐げられた人々が連帯・団結することで、社会や時代を下から変革
しようとするパワーが生み出されることがあります。
アメリカ独立やフランス革命はまさにその典型と言えるでしょう。
18世紀後半から、大西洋をはさんでヨーロッパとアメリカ大陸は、まさに革命の世紀に突入
します。民衆は自分たちの心の拠り所、また連帯の証を、歌や音楽に求めます。
のちにフランス国歌となる「ラ・マルセイエーズ」などもそうした心理から誕生したものでしょう。

初のアフリカ系の血をひく大統領が就任してから、1か月がたとうとしています。
200万人もの大群衆を前に宣誓したバラク・オバマ氏。彼の就任演説は、昨年11月の
大統領選挙の勝利演説ほど劇的ではなかったという批評もありましたが、弱者を励まし、
国民と同じ目線に立った言葉で、危機を乗り越えようという決意が感じられました。
就任式が行なわれた連邦議会の議事堂から約4キロ離れたリンカーン記念堂。
オバマ大統領が敬愛して止まない、第16代大統領エイブラハム・リンカーンが南北戦争中に
奴隷解放宣言を発表してから100年後の1963年。
やはりオバマ大統領が尊敬する黒人解放の父、キング牧師が I Have a Dream・・・
(私には夢がある・・・)と8月28日に演説した場所。

キング牧師らが指導した公民権運動。全米から続々と首都ワシントンに人々が集まり、
「今すぐ黒人差別の撤廃!」「白人と平等の仕事を!」などとプラカードを掲げ、
行進する黒人たち。これに賛同する白人たちの姿も。
人々は一緒に手に手をとって歩きながら、自然とこの歌を口ずさみました。

We Shall Overcome,
We Shall Overcome,
We Shall Overcome Someday.
*Oh,deep in My Heart
  I do Believe,
 We Shall Overcome Someday.

We’ll Walk Hand in Hand,
We’ll Walk Hand in Hand,
We’ll Walk Hand in Hand Someday.
*(繰り返し)

We Shall Live in Peace,
We Shall Live in Peace,
We Shall Live in Peace Someday.
*(繰り返し)

The Whole Wide World Around,
The Whole Wide World Around,
The Whole Wide World Around Someday.
*(繰り返し)

We Are Not Afraid,
We Are Not Afraid,
We Are Not Afraid Today.
*(繰り返し) 

私たちはうち勝つ
私たちはいつか勝だろう

私たちは手に手をとって歩く
私たちはいつの日か手に手をとって共に歩くだろう

私たちは平和に生きる
私たちはいつの日か平和に生きるだろう

この広い世界中
いつかこの広い世界中で

私たちは恐れない
今では何も恐れない

私は心の奥底でそう信じている
いつかきっと・・・

賛美歌の元歌に新しい詩が加わり、やがてフォーク歌手ピート・シーガーらの歌を通して
全米に広まります。
We Shall Overcome (勝利を我等に)は、アメリカだけではなく、世界中の弱き立場に
おかれた人々や虐げられた民衆が、権力や不当な支配者に対抗して、立ち上がり,
行動を起こす時のテーマソングとなりました。

歴史では、弱き立場、虐げられた人々が連帯・団結することで、社会や時代を下から変革
しようとするパワーが生み出されることがあります。



ウィ・シャル・オーヴァーカム:ザ・シーガー・セッションズ(アメリカン・ランド・エディション)(DVD付)

ウィ・シャル・オーヴァーカム:ザ・シーガー・セッションズ(アメリカン・ランド・エディション)(DVD付)

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2007/07/11
  • メディア: CD



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旅ニ病ンデ夢ハ枯レ野ヲ駆ケメグル [モノローグ]

忙しいことに慣れ、日常にあまりに埋没して時間を過ごしていると、
ふいにそこから無性に抜け出したくなる時があります。

けれど、どうしても物理的に逃げ出せない、という状況もある。
そんな時こそ、書ヲ読ム・・・。

書店で惹かれて手にとった、しかし、長く書棚に埋もれていた本を、
思い出しては掘り起こし、毎夜恐る恐る、少しずつ少しずつページをめくっていく。
それが、400年前の、万里の波濤を越えた苦難の旅の話なら、
日常から逃げ出せない自分の心を、無理やり主人公の心に重ね合わせて、解き放ちたい。

天正遣欧使節(1582~90年)の陰に隠れて、やや地味な印象を拭いきれない、
支倉常長らの慶長遣欧使節団(1613~20年)。
徳川の天下が確かなものになりつつあったこの時代、スペインと手を結び世界を夢見た
仙台藩主伊達政宗の命を受け、サムライたちは、未知なる太平洋を渡ってメキシコへ。
そして遥かな大西洋を航海してヨーロッパの地を踏む。
セビリヤ、マドリード、フィレンツェ、永遠の都ローマ。

前途への不安。言葉や習慣の壁。肉体も精神をもむしばむ命を懸けた船旅。
そして何よりも望郷の思い。
彼らを最初に受け容れ、彼らを見送ることになる、スペインの小さな町コリア・デル・リオに
ハポン(日本)という姓をもつ人々が暮らし、日本とよく似た田園風景が広がるという。
生きて故国の地を、という望みを捨て、自ら異郷に留まったサムライたちがいた可能性に、
歴史の波間に漂っては消えた人間の悲哀を感じざるを得ない。

本の中、想像の旅ではなく、いつかそうした人々の足跡を
少しでも自分の足でたどることができたら、と・・・。



ヨーロッパに消えたサムライたち (ちくま文庫)

ヨーロッパに消えたサムライたち (ちくま文庫)

  • 作者: 太田 尚樹
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 文庫



万里の波濤を越えて [リポート]

どこで見知ったものなのか、「伊東マンショ」という名が、なぜか気になっていた小学生の頃。
その気になり具合が大人になっても続いているから不思議です。

戦国時代、九州のキリシタン大名であった有馬晴信・大村純忠・大友義鎮(宗麟)が、
イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーニの勧めによって、カトリックの最高権威である
ローマ教皇のもとへ4名の少年(いずれも13~14歳くらい)を派遣しました。
これが天正遣欧使節です。

伊東マンショ、千々石 ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4名を中心とする使節団は、
織田信長が本能寺で倒れる1582年に日本を発ち、中国のマカオ、東南アジアのマラッカ、
インドのゴアを経て、アフリカのモザンビーク、遥か喜望峰をめぐって、大西洋からヨーロッパに
到達、ポルトガル、スペイン、イタリアの各都市を順にまわり、帰路も同じように万里の波濤を
越えて、豊臣秀吉が全国統一をする1590年に帰国するまで、往復8年の歳月をかけた
大旅行をやってのけました。

彼らは遠い異国の地であるヨーロッパの行く先々で熱烈な歓迎を受けたとされていますが、
ルターやカルヴァンらの宗教改革に端を発して、カトリック対プロテスタントの激しい宗教対立
の嵐が吹き荒れる16世紀後半、劣勢を挽回したいカトリック側の意図もそこには見え隠れ
しています。極東の小さな島国にもカトリックは広がっている・・・、と。

太陽の沈まぬ国、スペインの国王フェリペ2世(当時はポルトガル王位も兼ねて、世界で最も
広大な地域を支配していた)やローマ教皇グレゴリウス13世(古代ローマのカエサルによる
ユリウス暦を修正してグレゴリオ暦を採用したことで有名)に謁見した4名の少年たち。
ルネサンス・大航海時代・宗教改革によって社会のあり方や人々の価値観が大きく変容し、
激動の時代を迎えていた当時のヨーロッパの風景は、
九州の田舎で育った4人の少年たちの眼にはどのように映ったのでしょうか。

1591年3月、京都の聚楽第で、使節一行は関白・豊臣秀吉に謁見しました。
世界地図や地球儀、時計、アラビア馬、甲冑、油絵などを献上した後、彼らはヨーロッパから
持ち帰った楽器で西洋音楽を演奏した、と宣教師ルイス・フロイスは伝えています。

およそ400年前に、時の権力者・秀吉が耳にした西洋音楽とは・・・?

天正遣欧使節

天正遣欧使節

  • 作者: 松田 毅一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/01
  • メディア: 文庫


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終わりなき歌 [リポート]

チリの「新しい歌」の歌い手、ビクトル・ハラは、コロンブス以後にこの大地に我がもの顔で
乗り込んできて、長く支配を続けている人間に対して、声を上げて訴えました。

いま、ぼくの求めているのは  子どもや兄弟たちと共に暮らすこと
時代の中でみんなでつくりあげていく春
ぼくは脅しにはおびえはしない
貧困の主よ  希望の星はこれからもぼくらのものなのだ・・・
『VIENTOS DEL PUEBLO (民衆の風)』<訳詞:八木啓代>

彼は弱き民衆にも力強く呼びかけました。

鉄条網を切れ!  鉄条網を切れ!
この土地は俺たちのもの
そして君のもの、あいつのもの
どこにでもいるペドロや  マリアやファンやホセのものだと・・・
『A DESALAMBRAR! (鉄条網を切れ!)』<訳詞:八木啓代> 

平和に生きる権利は決して誰にも消せないことを、海の向こうのヴェトナムの光景にも
重ね合わせて、叫びました。

ぼくらの歌は  純粋な愛の歌
鳩舎の野鳩、オリーブの畑のオリーブ
それは普遍的な歌  勝ちとらせる鎖
平和に生きる権利を
『EL DERECHO DE VIVIR EN PAZ (平和に生きる権利)』<訳詞:八木啓代> 

1973年9月11日、チリで軍事クーデタ勃発。アジェンデ大統領はラジオを通して
国民に団結と自由な社会の実現を訴えるが、爆撃のさなか死亡。
翌日逮捕され、チリ・スタジアムに連行されたビクトル・ハラは、人々を勇気づけるために
人民連合賛歌である『ベンセレーモス』を歌うが、怒った軍人たちによってギターを
弾けぬように手を撃ち抜かれ、そして背後から機関銃で撃ち殺された。35歳。

働く貧しい人々の側に常に立った「新しい歌」の歌い手は、
同月18日に死体置場で無惨な姿で発見されました。

禁じられた歌―ビクトル・ハラはなぜ死んだか

禁じられた歌―ビクトル・ハラはなぜ死んだか

  • 作者: 八木 啓代
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 1991/05
  • メディア: 単行本


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