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万里の波濤を越えて [リポート]

どこで見知ったものなのか、「伊東マンショ」という名が、なぜか気になっていた小学生の頃。
その気になり具合が大人になっても続いているから不思議です。

戦国時代、九州のキリシタン大名であった有馬晴信・大村純忠・大友義鎮(宗麟)が、
イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーニの勧めによって、カトリックの最高権威である
ローマ教皇のもとへ4名の少年(いずれも13~14歳くらい)を派遣しました。
これが天正遣欧使節です。

伊東マンショ、千々石 ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4名を中心とする使節団は、
織田信長が本能寺で倒れる1582年に日本を発ち、中国のマカオ、東南アジアのマラッカ、
インドのゴアを経て、アフリカのモザンビーク、遥か喜望峰をめぐって、大西洋からヨーロッパに
到達、ポルトガル、スペイン、イタリアの各都市を順にまわり、帰路も同じように万里の波濤を
越えて、豊臣秀吉が全国統一をする1590年に帰国するまで、往復8年の歳月をかけた
大旅行をやってのけました。

彼らは遠い異国の地であるヨーロッパの行く先々で熱烈な歓迎を受けたとされていますが、
ルターやカルヴァンらの宗教改革に端を発して、カトリック対プロテスタントの激しい宗教対立
の嵐が吹き荒れる16世紀後半、劣勢を挽回したいカトリック側の意図もそこには見え隠れ
しています。極東の小さな島国にもカトリックは広がっている・・・、と。

太陽の沈まぬ国、スペインの国王フェリペ2世(当時はポルトガル王位も兼ねて、世界で最も
広大な地域を支配していた)やローマ教皇グレゴリウス13世(古代ローマのカエサルによる
ユリウス暦を修正してグレゴリオ暦を採用したことで有名)に謁見した4名の少年たち。
ルネサンス・大航海時代・宗教改革によって社会のあり方や人々の価値観が大きく変容し、
激動の時代を迎えていた当時のヨーロッパの風景は、
九州の田舎で育った4人の少年たちの眼にはどのように映ったのでしょうか。

1591年3月、京都の聚楽第で、使節一行は関白・豊臣秀吉に謁見しました。
世界地図や地球儀、時計、アラビア馬、甲冑、油絵などを献上した後、彼らはヨーロッパから
持ち帰った楽器で西洋音楽を演奏した、と宣教師ルイス・フロイスは伝えています。

およそ400年前に、時の権力者・秀吉が耳にした西洋音楽とは・・・?

天正遣欧使節

天正遣欧使節

  • 作者: 松田 毅一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/01
  • メディア: 文庫


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Haruna

お願いがあります。昭和30年代まで、都於郡小学校で歌われていた歌の歌詞をご存知の方は教えていただけませんでしょうか。私は、小学校3年まで都於郡小学校にいました。少し、覚えている部分があります。校歌代わりに歌っていました。転勤して来られた先生が、「これは校歌じゃない。伊東マンショの歌だ。」と言われたのを覚えています。その後、校歌ができたそうです。


   8年(やとせ)の旅を船出して、遠くローマの・・・・・
   伊東マンショ、名も高し
  
   ・・・をともとし・・・・なる
   

 
by Haruna (2008-02-01 11:11) 

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