ボヘミアの光と影~その2・もうひとつのヘイ・ジュード [リポート]
第2次世界大戦後、ソ連の影響下に社会主義国としての道を
歩んだチェコスロヴァキア。
「自由」と「平等」は人類が永遠に追い続けるテーマだと思いますが、
平等を実現するために、自由を抑制せざるを得なかったのが、社会主義
体制の現実だったのではないでしょうか。
1968年、プラハの春。
社会主義体制への批判と、改革・自由化を求める国民の運動が広がり、
同年1月に新しく共産党第1書記に就任したドプチェクは、国民の期待に
応えて自由化路線を推進しました。
しかし、ソ連はこれに軍事介入。8月にワルシャワ条約機構軍がチェコ
スロヴァキア全土を占領。プラハ市民は街を蹂躙するソ連軍の戦車を
取り囲んで激しく抗議しますが、ドプチェクは解任され、自由化運動は
ソ連の圧力で抑えられ、プラハの春は終わりを告げます。
この時、2つの歌が人々の心に響きました。
『マルタの祈り』はもともと17世紀のモラヴィアの神学者がつくった
詩をもとにした平和と独立の歌。当時26歳の女性歌手マルタ=クビショバ
が歌い、ソ連への抵抗の歌になりました。
そして『ヘイ・ジュード』です。もちろんビートルズの有名なバラードですが、
歌手マルタ=クビショバはチェコ語でこれをカバーし、チェコの人々にしか
わからないように「自分たちは決して負けない」というメッセージを含んだ
自由と平和を求める民衆の歌としてレコーディングしました。
数年前に放映されたNHKの『世紀を刻んだ歌』という番組は、この
「もうひとつのヘイ・ジュード」についての物語です。
1989年、ビロード革命。
冷戦の終結、ベルリンの壁崩壊、東欧革命。チェコスロヴァキアでも
プラハの春以来約20年ぶりに高まりを見せた民主化運動の中で
共産党政権が打倒され、民主化・自由化へ向けた国づくりが
スタートしました。そこで人々によって再び歌われたのが『マルタの祈り』
であり、『ヘイ・ジュード』でした。
- アーティスト: ジェリー・グロスマン, ダイアン・ウォルシュ, イバン・クラーンスキー, イバン・モラベック, マルタ・クビショバー, ジョン・レノン, ポール・マッカートニー, ヤルミラ・シュラコバー, スメタナ弦楽四重奏団
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 1997/12/17
- メディア: CD
ボヘミアの光と影~その1・抵抗の炎 [リポート]
チェコの首都プラハ。中世の面影を残すベーメン(ボヘミア)王国の
古都。百塔の街とも呼ばれ、その美しい街並みは、毎年多くの
観光客で賑わう・・・。
プラハの街が最も繁栄したのは、14世紀。ベーメン王から神聖ローマ
帝国皇帝になったカール4世の治世です。教科書では、1356年に
皇帝を選出する権限を聖俗7人の選帝侯に与える「金印勅書」が
カール4世によって発布されたとあります。
またカール4世は、中央ヨーロッパでは最古となるプラハ・カレル大学を
設立しました。この大学の総長をつとめ、宗教改革を始めたのが
神学者ヤン=フス(1370?~1415)です。これはルターの改革より
およそ100年も前のことです。
フスは聖書中心主義を唱えたイギリスの神学者ウィクリフに賛同し、
権力や金銭問題で腐敗していたカトリック教会やロ-マ教皇を
痛烈に批判しました。個人が、神との仲介を果たす教会を素通りして、
聖書の中の神の言葉にふれることを否定する教会は、
フスを異端として捕らえ、火刑に処します。
フスの火刑はチェック人にとっては大きなショックでした。彼に共鳴した
人々(=フス派)は立ち上がり、その後20年近くにわたって、教会の
圧迫や皇帝と戦いました(=フス戦争 1419~36年)。
横井雅子著『音楽でめぐる中央ヨーロッパ』によれば、ボヘミアの地には
古くからたくさんの宗教歌が伝えられており、『主よ、あわれみ給え
(キリエ・エレイソン)』もその最古のものとか。
また、フスは聖書のチェコ語訳を行ない、民衆にわかる言葉でキリスト教
を伝えるのに努力しました。彼は音楽が布教活動に果たす役割も充分に
認識しており、当時はチェコ語の聖歌が盛んにつくられたそうです。
『讃美歌21』の第274番<救い主 キリストよ>はフスの詞に手が加えられ
たものです。600年前のフスの改革の精神が、多くの人々を経て現在まで
讃美歌として脈々と受け継がれている・・・。
チェック人はその後、民族・宗教・文化の面でもハプスブルク家の支配を
受けることとなりますが、独立や抵抗の戦いはこれ以後も続きます。
それはフスの身体を包んだ炎を、人々が決して忘れなかったからでしょう。
モルダウは永遠に・・・ [リポート]
歌や音楽が好きなわりには、楽器も演奏できず、歌も苦手で、
これといった音楽経験がない私。そんな私でも中学生の時はなぜか
毎年、校内の合唱コンクールだけは燃えていたような・・・。
記憶の糸をたどれば、確か中学2年のときの課題曲が
スメタナの『モルダウ』(♪ボヘミアの川よ~、モルダウよ~)だった
ような覚えがあります。
現在のチェコはかつてボヘミア王国として栄えました。
しかし、いつしか神聖ローマ帝国領に入り、ハプスブルク家の支配を
受けます。この地域はドイツ人が多く居住し、政治・経済・宗教でも
ドイツ人が優位に立ち、チェック人はその下におかれていました。
1848年、ヨーロッパでは革命の嵐が吹き荒れます。
パリで労働者が蜂起した二月革命に続き、ドイツでは三月革命が
起こります。ベルリンやウィーンでも暴動が発生、自由主義や
ナショナリズムが叫ばれます。ハプスブルク家の支配する
多民族国家オーストリアでも、ハンガリー人やチェック人が民族の
独立を求めて立ち上がりました。当時学生であったスメタナも
民族の独立を夢見て革命軍に身を投じました。ですが、反乱は
あえなく鎮圧され、1867年にハンガリーに対して自治が認められ
た(オーストリア=ハンガリー帝国)後も、チェック人はドイツ人に
支配され続けました。
スメタナ自身はドイツ人社会に育ったことから、ドイツ語しか話せず
祖国や民族に対する思いとは裏腹に、周囲のチェック人から冷たく
され、作曲家としても死の直前まで評価されなかったようです。
それに加えて彼は耳病によって聴力を完全に失ってしまうのです。
そんな絶望的な状況にもかかわらず、スメタナは、自らがチェック人で
あることを再確認するかのように、交響詩『わが祖国』を作曲しました。
ボヘミアの母なる川・・・ヴルタヴァ(モルダウ)を讃える旋律は、
美しい故郷の風景に民族のアイデンティティを重ねながら、
力強く私たちに迫ります。
それは虐げられた民族の、心の叫びにも聞こえます。
遠い、アジアの記憶 [リポート]
東欧でなぜか親近感を持つ国がハンガリー。
学生時代にハンガリーからの留学生と親しくなったのがその理由です。
彼女の名前はボロシェ・ガブリエラ。愛称ガビー。もうかれこれ20年近く
前のことなので、友人たちと彼女を動物園に連れて行ってあげたり、
最後に駅に見送りに行ったことくらいしか憶えていないのですが、
彼女から教えてもらったことで、教師になって「そうだったのかっ!」と
思った瞬間がありました。
ハンガリー人の名前は他のヨーロッパ諸国と異なり、姓(苗字)と名が
日本と同じ順番です。ハンガリーの作曲家バルトーク・ベラも、姓が
バルトークで、名がベラです。そのことをガビーから教えてもらった時は
「へえ~」くらいで、たいして気にも止めなかった私。
4世紀後半、アジア系の騎馬民族フン人の大規模な侵入によって、
ゲルマンの一派の東ゴート人が征服され、西ゴート人は西暦375年に
移動を開始、ドナウ川を渡ってローマ帝国内に移り住み、以後約200年
にわたるゲルマン民族の大移動が続きます。
フン人の王アッティラはパンノニア(現在のハンガリー)を拠点に
ヨーロッパ中を侵略しますが、やがてこの地に同化したようです。
Hungaryはまさしく「フン人の土地」なのです。
9世紀にやはりアジア系の騎馬民族であるマジャール人が、
かつての「フン人の土地」にやってきます。
マジャールMagyarとは、ムガールが変化したもので、もともとは
モンゴルを表す言葉だということです。
いずれにしてもハンガリーの人々は、ユーラシア大陸の真ん中=
アジアから、ヨーロッパの東まで旅をしてきた民族の子孫と言えます。
ハンガリー人の名前の表記の順番は、まさに民族の歴史の名残り
です。それは遠いアジアの記憶を忘れないためなのかも知れません。
ヨーロッパの東西と交わり、バルカン半島からロマの人々が流れ
込み、そして自らはアジアに起源をもつハンガリー。
横井雅子著『音楽でめぐる中央ヨーロッパ』では、独自の音楽世界を
築いたハンガリー・チェコスロヴァキア・ポーランドといった国々の
歴史を背景にした音楽が紹介されています。この地域の歴史と同様に、
伝統音楽、民族音楽にクラシック音楽が重なり合う状況が語られていて、
大変興味深いガイドブックと言えます。
旅の人、あるいは流浪の民 [リポート]
かつて地方の学校に勤務していた時に耳にしたのが「旅の人」と
いうフレーズ。数年したら転勤してしまう公務員(や会社員)を指して
地元の人々が口にする言葉。地元に根づかないという否定的な意味
にも聞こえ、少々さびしい気持ちになったのを憶えています。
大陸を数世紀にわたって移動した「旅の人」たち、ロマの人々。
ジプシーという呼び方が一般的ですが、これは英語でイージプシャン、
つまりエジプト人ということ。でもロマの人々は、言語学や人類学その他の
研究によって、インドからさまざまな経路をたどってヨーロッパに来たのでは
ないかという説があります。フランスではジタン、スペインではヒタノ、
ドイツではチゴイネルとも呼ばれ、ボヘミアンという言葉もジプシーの
ことを示す場合があります。これはボヘミア王国(現在のチェコ)から来た人
という意味。いずれにしても、異邦人、異教徒を意味する単語で呼ばれて
きたようです。
彼らは、自分たちのことを「ロム」(複数形がロマ)「ロマニー」と呼ぶ
ようですが、それは「人間」という意味です。今からおよそ500年前くらい
にヨーロッパに姿を現した人々ですが、定住生活をせず、文化や習慣が
非常に異なる存在であったため、当時から迫害や差別を受けてきました。
20世紀でも、ナチスによって強制収容所に送られたり、共産圏の国々
での締めつけがありました。
しかし、人から何と呼ばれようと、迫害や差別を受けようと、彼らは実に
たくましく生きています。音楽や踊りが好きで、結婚式や祭りには常に
歌と踊りがあったようです。スペインのフラメンコもその起源はジプシー
の音楽舞踏と密接な関係だとか・・・。
「ジプシー風」はクラシック音楽にもたくさんあります。サラサーテの
『チゴイネルワイゼン』、シューマンの『チゴイネル・レーベン』
(流浪の民)、リストの『ハンガリー狂詩曲第2番』などなど。
ポピュラー音楽の世界でも、ロマ音楽のテイストが溢れたサウンドには
耳を奪われます。ポップスと伝統音楽の融合によって、ロマの人々の
存在がより身近に感じられます。そして、虐げられた人々の深い情念の
表現としての音楽も、世界共通のものと言えます。
ローマ人の国の、英雄と暴君 [リポート]
ヨーロッパの代表的な河川、ドナウ川。ドイツ南部のシュヴァルツヴァルト
(黒い森)から東ヨーロッパ各国を流れ、黒海にそそぐ全長約2900㎞の
大河です。
ドナウ川は、現在はブルガリアとルーマニアの国境線にもなっていますが、
このあたりの地域は、古代でもローマ帝国の防衛ラインになっており、
ドナウ川より北はダキアと呼ばれ、ローマから蛮族の住む場所とみなされ
ていました。このダキアを征服し、帝国の領土を最大にしたのが、
五賢帝の1人で、西暦98~117年に皇帝であったトラヤヌス帝です。
以来、ダキアにはローマ人が移住し、ローマの文化が広く伝わりました。
中世になると、この地域にはワラキアとモルダヴィアという国ができます。
ワラキア公国は14世紀以降オスマン=トルコ帝国の圧迫を受けますが、
トルコと戦って自国の独立を守ろうとした英雄、と言われたのがヴラド
=ツェペシュでした。彼のニックネームは「ドラキュラ」(ドラクルの息子
・・・小竜公という意味らしい)、そう、19世紀の作家ブラム=ストーカー
の作品に登場する吸血鬼ドラキュラの名前の由来はここにあります。
ただし、吸血鬼伝説はバルカン半島に古くから伝わるものらしく、
ヴラドとは関係ないようです。
実はツェペシュというのも、串刺し(公)という意味の呼び名で、敵の
トルコ人や自国民も多く串刺しにして処刑したことから、このような
ニックネームがつけられたとか・・・。
何か吸血鬼よりも怖そうなイメージですが、英雄は時に残酷なものです
(そうでなくても必ず敵対勢力が悪く宣伝するものです)。
まあ、織田信長などと同じ系列でしょうか。
19世紀後半、オスマン帝国が弱体化し、露土戦争で1878年に
トルコが負けると、ワラキア・モルダヴィアの地域(かつてのダキア)は
ローマ人の国(Romania)=ルーマニアを国名として独立。
第2次世界大戦後にはソ連の影響のもと、共産主義国となりますが、
1989年の東欧の民主化革命により、チャウシェスク大統領の独裁
政権が打倒されました。
ルーマニアはスペインと並んで、ロマ(=ジプシー)の人々が多く
暮らす国。そのロマの音楽の伝統と日常生活の生々しい感情を伝える
のが「タラフ・ドゥ・ハイドゥークス」という楽団で、『独裁者のバラード』と
いう曲で、彼らはチャウシェスク政権を批判・弾劾しています。
出てこい、ルーマニアの同胞たちよ、独裁政権をやっつけよう・・・・・
暴君よ、お前はルーマニアを破壊した・・・・・
ヴァイオリンの絞り出すようなサウンドと、枯れながらも迫力のある
歌声は、差別や支配に対する、少数者の魂の叫びにも似た
熱いものを感じます。
ヨーグルトを超える「声」 [リポート]
年末年始のテレビ番組で彼の顔を見ない日がないくらい、いまや人気沸騰
の新大関の琴欧州。ヨーロッパ出身力士で初の大関、そしてスピード出世と
いうことで、注目を一身に集めていますが、彼はブルガリアの生まれです。
ブルガリアといえば、まず真っ先に思い浮かぶのが、ヨーグルト。
でも、それ以外に目立ったものはない?
世界史の教科書で最初にブルガリアが登場するのは、何と7世紀。
トルコ系のブルガール人が王国を建国した・・・とあります。しかし、その後
ビザンツ帝国やオスマン=トルコ帝国に長い間支配されることになります。
次に登場するのは、これまたやっと19世紀になってから。
オスマン帝国が弱体化し、バルカン半島に居住する諸民族が独立の動き
を見せ、さらにそこに英仏やロシアなどの強国が進出を狙うという、
まさに大混乱の時代。
ブルガリアも強国の利害関係によって、領土が増えたり減ったりと、
忙しく(?)なりますが、やがて、ドイツやオーストリアもこの地域に触手を
伸ばし、民族や宗教の対立が一段と激しさを増して、バルカン半島は
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになります。
結局それが第1次世界大戦の引き金になりました。
さて、そのブルガリアで、ヨーグルトを超えるのが「声」です。
「声」とは、いわゆる「ブルガリアン・ヴォイス」と呼ばれる女声合唱のこと
ですが、奇跡の、神秘の、という形容でも足りないくらいの衝撃を、私は
初めて聴いたときに覚えました。実際にそれまでまったく経験のない
声の響きで、本能的に涙腺が緩んでしまいました。
1人ではなく、必ず複数によって歌われ、不協和音による不思議な
パワーがびんびん伝わってくる「ブルガリアン・ヴォイス」。
民族・宗教・文化の十字路のようなバルカン半島。ブルガリアを地図で
見ると、音楽の泉の源のような神話を有するギリシアがすぐ近く。
江波戸昭の『世界の民謡めぐり』によれば、太陽神アポロンと、
仕えるミューズのうちの1人との間に生まれたオルフェウスは、
航海中に人を惑わすセイレーン(サイレン)の歌声に音楽で対抗する。
トラキア育ちのオルフェウスは最古の音楽家とも言われるが、トラキアは
現在のブルガリアの東南部。また猛将オデッセウスさえも震え上がらせた
セイレーンたちの歌声こそ、「ブルガリアン・ヴォイス」ではなかったかと。
確かに「ブルガリアン・ヴォイス」は、何かに引き込まれるような、独特の
歌声ではありますが・・・。
元祖、ブラスバンド!-その2 [リポート]
数年前に「ブラス!」(ユアン=マクレガー主演)という映画がありましたが、
吹奏楽は何となく人を熱くさせるパワーがあるように思います。
映画「ブラス!」も、音楽と人生という大切なものを気づかせてくれる秀作
でした。(※ブラスバンドと吹奏楽は厳密にいうと違いますが・・・)
かつて私も、吹奏楽部の顧問だったことがありました。練習やコンサートに
付き添っていると、だんだん音楽のパワーに引き込まれ夢中になります。
しかし、正顧問の先生が腰痛のときに、生徒に「先生、指揮してください」
と言われて汗をかいた覚えがありました。何を隠そう、私自身は楽器も
演奏できないし、まして指揮なんて・・・。
1453年は、2つの出来事があった年でした。ジャンヌ=ダルクで有名な
英仏百年戦争が終わった年。そして、もう1つは、395年から続いていた
東ローマ帝国(=ビザンツ帝国)が滅亡した年。
オスマン=トルコ帝国は1453年にビザンツ帝国を滅ぼしましたが、
これ以後トルコの軍楽隊は大きく発展します。占領地で得た奴隷を
軍楽隊に編入して組織化し、管楽器や打楽器などで構成された大編成
(200人以上)になりました。
16~17世紀にかけて、イスラム世界の中心となったオスマン=トルコ
帝国はヨーロッパの脅威となります。ヨーロッパ最大の国家=神聖ローマ
帝国の首都ウィーンは、しばしばトルコ軍に包囲されますが、ヨーロッパの
人々はそのたびに聴いたこともない軍楽隊の大音響に驚いたことでしょう。
しかし、その経験こそが、ヨーロッパの軍楽隊やブラスバンドの起源に
なったのです。
また、18世紀以降、ヨーロッパでは「トルコ風」が大流行しました。
モーツァルトやベートーヴェンにも大きな影響を与えました。
「トルコ行進曲」というのはここからきています。モーツァルトのピアノ
ソナタ第11番イ長調(トルコ行進曲つき)のリズムの一部(ピアノの鍵盤の
叩き方に注目)に、当時の人々がイメージした「トルコ風」がわずかに
感じられます。「ジェッディン・デデン」と聴き比べると面白いかも。
ちなみに、トルコ軍によるウィーン包囲から生まれた(広まった)ものが
2つ。パン屋さんがトルコを食う(イスラムのシンボルでかつトルコの旗印
が三日月)という意味で考案したのが、クロワッサン。
マリー=アントワネットがルイ16世と結婚してフランスに伝えられました。
そしてもう1つが、イスラムのお祈りのときに眠くならないようにと飲んだ
黒い飲み物、コーヒー。トルコ軍が撤退した後、大量にコーヒー豆が
落ちていたことから、ヨーロッパで最初にカフェ(喫茶店)が流行したのが
ウィーンであったということです。
ただ最初ヨーロッパの人々は、コーヒーを「悪魔の飲み物」として恐れた
ようです。
元祖、ブラスバンド!-その1 [リポート]
日本人で最も多い血液型はA型、次いでO型、B型、最も少ないのがAB型
だそうです。B型の割合は約20%らしいのですが、遊牧民の血液型で
多いのがB型だとか。B型の人がチーズやヨーグルトなどの乳製品を
食べると、自然と落ち着くんだよ、とある先生が言っていたなあ・・・。
それが正しい気がするのは、私もB型だから(?)。
すっかり農耕民の生活習慣にはまりながらも、職場の同僚でチーズが
嫌いな人(AB型)に、「何でこんな美味しいものが食べられないの?」
と口撃してしまうのは、やはり先祖が遊牧民なのか?
さて、遊牧民による世界帝国といえば、モンゴル帝国ですが、実は
それ以前から騎馬民族として有名だったのがトルコ人。
彼らがもともと住んでいたのは、現在トルコ共和国のある地域=小アジア
ではなく、ユーラシア大陸のど真ん中=中央アジアでした。アラブ人が
中心であったイスラム帝国の時代は、軍事奴隷(マムルーク)として
重宝されていました。トルコ人は11世紀にセルジューク朝という王朝を
築きますが、何といっても13世紀末にできたオスマン朝は、最盛期には
アジア・アフリカ・ヨーロッパの3つの大陸にまたがる大帝国を出現させ
ます。そのオスマン=トルコの軍楽隊こそ、元祖ブラスバンドなのです。
オスマンの古い陸軍行進曲「ジェッディン・デデン」は、NHKドラマの
「阿修羅のごとく」(向田邦子原作)のテーマ曲となってから、一般に
知られるようになり、その後CMなどでも使用されるようになりました。
きっとどこかで耳にしているかも・・・。
消えない記憶 ~ ホーミー [リポート]
高校の世界史の教科書では、中国史というのは黄河文明から一気に
4000年くらいを学習します。隋唐から宋までくると、少々食傷気味に
なるのですが、次にモンゴル帝国と元の中国支配になると、劇的に
ドラマが転換します。それは、それまで劣勢だった遊牧民族が、
どーんと世界帝国をつくるからでしょうか。
モンゴルの授業では導入に事欠きませんが、馬頭琴と同様に、いや、
それ以上に生徒の興味を惹き付けるのは、何といっても
ホーミーでしょう。
1人で2つの声を出す独特な歌唱法=ホーミー。モンゴルでも歌い手
は年々少なくなっているようです。今でこそテレビのCM(最近は
某ユニクロ)で鳴り響いていたり、NHKでは松任谷由実(ユーミン)
の声と比べてみよう!という面白い番組も以前ありましたが、
私が15年くらい前に教室で生徒に聴かせた時には、「何、コレ?」
「うわあ、気味が悪い!」「怖いよおっ・・・」「いったいどうなってる?」
と驚かれたものです。そればかか、休み時間に練習する者が現れ
たり(そっちの方が不気味! でも、私も密かにお風呂場で猛特訓
していましたが・・・)、とにかく大変でした。
モンゴルにはオルティン・ドゥー(長い歌)という歌もあります。
これは日本の民謡の追分に非常によく似ています。シルク・ロード
ならぬ、こぶしロードという言葉があるくらい、実はこぶしを効かせる
歌い方が、ユーラシア大陸の端から端に見られます。
「源義経はチンギス=ハーンだった」という話は、近代日本の中国
大陸への進出を肯定する夢想的な伝説ですが、
音楽文化が長い年月にわたって、広い地域に伝わり、交流が
あったという方が、よほど現実的ではないでしょうか。
そして、卒業して何年たっても、教室で聴いたホーミーを
覚えていてくれる生徒がいます。